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曽根崎小学校跡地が更地になりました H28-2-25 |
閉校のことば 入江信男校長 曽根崎閉校記念誌より |
この度、学校の統合により、明治7年に創立された「大阪市立曽根崎小学校」は、114年7ヶ月の歴史に幕を閉じることになりました。市の方針に従い、統合に向けて最善を尽くしてきたもの の、いざ、閉校になると誠に寂しく残念であり、先輩の先生方や卒業生の皆さん方に、そして戦 後の苦しい中で学校を支えていただいた地域の皆さん方にただただ申し訳ない気持ちでいっぱいであります。高度経済成長以来、急速な社会の変化により街の様相も著しい変容を来してまいりました。昭和51年に大阪市学校適性配置審議会の第一次答申が出されて13年がたちました。その間、児童数の急激な減少をみるにあたり、子供の教育を中心に論議が展開され、数々の問題点をはらみながらも堂島・曽根崎が昭和61年に統合されました。そして、その統合の貴重な経験を生かし、梅田東と曽根崎が対等な立場で統合することで、結論は賛成を取り付けたものの、各論においてなかなかご理解を得ることができなかったわけですが、2年間の激しい論議の中で統合推進委員会が結成され、答申通り3校の統合のみるにいたりました。 今回の統合は、あくまでPTA・PTAのOB・地域の方々により、曽根崎の子供たちの置かれてる立場や将来を最重点に考えられ、大乗的見地に立った決断により実現されたもので、全市に 類を見ない誇りえるものと確信しております。2年間にわたりご苦労頂いた方々に心からの敬意 と感謝を捧げたいと思います。本当に有難うございました。 この閉校記念誌は、百周年記念誌を元に抜粋し、その後の歩みをまとめたものであります。より多くの方々に「曽根崎」の思い出を語っていただきたかったのですが、紙面の制約上お許し頂きたいと思います。百周年記念誌を読み返すたびに、また、ご寄稿いただきました方々の原稿を読ませていただくたびに、114年の歴史と伝統の重みをひしひしと感じております。 大阪市立曽根崎小学校は、明治・大正・昭和と続きここに校史をとじます。奇しくも新しい年 平成元年に大阪市立大阪北小学校が、新校舎と共に曽根崎の地に誕生することとなりました。 生涯教育の地域のセンターとして、曽根崎にゆかりのある皆様方も、温かいご支援をいた だき、大阪北小学校の100年後には、曽根崎小学校に優るとも劣らない学校に発展する ことを願って止みません。 |
大阪市では、北区の大阪北小学校(校長 俵谷好一)と扇町小学校(校長 松本溢子)の両校の 2、年度別、学級数と児童数(養護学級児童含む) (大阪北小学校)
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昭和32年頃の曽根崎小学校の会議風景 |
パネリスト久保田 光さん(菅南12期)中央の議長は大月レコード店のお母さん、その右側は加藤晃子さん(菅南12期) |
昭和35年3月 小学校卒業時の住所分布 |
町名 | 町名 | 町名 | 町名 | ||||
北区外 | 87名 | 堂山町 | 14名 | 小松原町 | 4名 | 天神橋筋 | 1名 |
梅田町 | 35名 | 神山町 | 12名 | 芝田町 | 4名 | 同心 | 1名 |
曽根崎中1 | 8名 | 太融寺町 | 14名 | 角田町 | 1名 | 伊勢町 | 1名 |
曽根崎中2 | 17名 | 兎我野町 | 11名 | 小深町 | 1名 | ||
曽根崎上1 | 15名 | 西寺町 | 5名 | 扇町 | 5名 | 松ケ枝町 | 1名 |
曽根崎上2 | 3名 | 野崎町 | 14名 | 西扇町 | 2名 | 木幡町 | 1名 |
曽根崎上3 | 8名 | 万歳町 | 5名 | 堂島西町 | 1名 | 山崎町 | 1名 |
曽根崎上4 | 14名 | 梅ケ枝町 | 1名 | 中ノ島 | 1名 | 浪速町 | 1名 |
曽根崎新地 | 6名 | 中崎町 | 3名 | 堂島中1 | 1名 | 紅梅町 | 1名 |
永楽町 | 3名 | 高垣町 | 9名 | 堂島上3 | 4名 | 葉村町 | 2名 |
堂島浜 | 3名 | 浮田町 | 1名 | 常安町 | 2名 | 樋の口町 | 1名 |
主な町名の由来 |
万歳町 | 万歳橋に由来 | 曾根崎 新地 |
1710年蜆川北側が開発され曾根崎新地と呼ばれるようになった。南側は 堂島。 |
兎我野町 | 仁徳天皇が夜な夜な菟我野(=夢野) から鹿の声が聞えたが・・・・昔話より |
梅田 | 田畑池沼を埋め立てたので埋田の説 ここの土地の所有者、梅田草庵の説 |
太融寺町 | 太融寺にちなんで。 | 堂山町 | 太融寺のお堂があったことに由来。 |
西寺町 | 1615年夏の陣、冬の陣以後の大阪 戦後復興整理の為、寺社が上町台地と西寺町、東寺町に集められた。 |
神山町 | 昔小高い丘で綱敷天神社の創建される以前から神野神社がありそこから生まれたとゆう説。 |
曾根崎 | 古来は曾根崎洲とゆう洲であり難波 八十島祭の旧跡であったとゆう伝。 |
常安町 | 中之島を開拓した江戸時代の豪商 淀屋常安に由来。 |
堂島 | 諸説いろいろ その一つ、古くから薬師堂があり、「堂島のお大師さん」とも呼ばれ、 米市場もちかいことから人々の信仰があつかった。(今はアバンザ東側) |
曽根崎小学校同窓会記念写真 2001-2-4 |
幼稚園恩師の思い出 休園記念誌より平成9年 |
田中 はつ先生 | 昭和20年戦災で焼失、休園、同25年再開園され教諭3名が赴任してまいりました。教具他一切、小学校の借り物でスタート。開園と同時に入園希望者が多く、1組50名を越す盛況で、活気ある多忙な毎日でした。その後、地域の皆様のご協力で園舎は勿論、諸施設特に体育遊具が次々新設され、恵まれた環境の中で遊びを展開できたのはうれしい事でした。元気で明るい笑顔に囲まれすごした40年前の懐かしい思い出です。 |
米澤 峯子先生 | 北の玄関、曽根崎が再開園された時赴任した。小学校の門をくぐるとプールの前に教室があり、長机の前に紙と鉛筆が置いてあった。これで入園の準備が出来るのだろうかと心配したが、やっと入園式を迎えることが出来た。戦後梅田の開発で子供が増加した。みんな仲良く手をつなぎ、輪になって元気に遊んだ。しかし、ビジネス化してきた地域で、子供も減少し休園になる寂しさを感じられるが、又の開園を期待したい。 |
喜多山美知子先生 | ”開園時に思いを馳せて” 開園当時、小学校の教室を保育室に利用していた。子供の数が多く、すしずめ状態だった。園庭で随分遊び場もなくプール側でうろつく子、「よう遊ばん」と泣く子少しも目放し出来ず、また、家庭は繁華街のため遊びもままならず、活力の乏しい子供が多かった。この子等をして心身共に潑刺とした子供に育てたいと,園外保育等に力を入れ努力した。幸い保護者の協力を得たおかげで、次第に体力も向上していった。当時の子供達が、立派に社会人として頑張っていることを聞くにつけて、大変嬉しく思っている。 |
曽根崎幼稚園の歌 作詞 藤澤 ゆかり先生 クリック 作曲 小川 正 |
1 | 皆で歌おう 大きな声で 皆で呼ぼう 友達おいで 楽しい 曽根崎幼稚園 |
2 | 皆で歩こう 胸はずませて 皆で持とう 大きな夢を 明るい 曽根崎幼稚園 |
平成8年度園児(8名)と教職員。園長 村上昌也先生。
昭和29年 前列左より喜多山先生、田中先生、桑原園長、米澤先生、 後列左より宮嶋先生、北垣先生、上田校務員、広田先生、小川校務員 |
桑原先生の色紙と版画 絵と版画 故 長谷川富三郎画伯 |
露天神社 |
露天神本殿 |
お初天神商店街HP |
西日に映る出入り橋の石畳 (昭和10年竣工)江戸時代 西100Mに蜆川に架かる 梅田橋があった |
曽根崎心中、第3章 道行 この世も名残、夜も名残・・・・・ 二人の渡る梅田橋・・・・・・ 挿入画 露天神社承認済 |
夕暮れの、お初・徳兵衛 ブロンズ像と供養碑 2人の墓は八尾市の大通寺 |
祭の特徴 |
大阪梅田新道の近く、四方八方高層ビルに囲まれた中で毎年7月に祭が営まれています。太鼓、獅子舞お囃子、地車囃子とも、外注せず、祭り好きが集まって自前で運営しています。氏地には小学校がよそに合併されるぐらい住民はいませんが、練習が始まり境内の中から役太鼓や、獅子舞のお囃子の音色が響きわたると夏祭りの情緒が漂い、親につれられた子供達がどこからともなく集まる。宵宮は7時PM頃より境内で賑やかに演じられ、本宮は正午~1時に役太鼓、獅子舞の順に宮出、大阪の表玄関を巡行、9時~9時半PM頃宮入の予定です。 | |
氏地 | 大阪の表玄関、ACTYビル、ハービス、毎日新聞社、桜橋付近、大阪駅前1,2,3、4ビル、梅田町、曽根崎新地旧永楽町、曽根崎1丁目、2丁目北、南等を巡行。 |
御旅所 | 巡行途中に各地区役員による接待が盛りたくさん。 |
手打ち | うちまーしょ もひとつせぇ よいとさーのぉ 3回手打をした後最後に 両手を上にあげる。 |
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ヒルトンプラザでの神前。 | たぶん50年以上前の元獅子舞総指揮 石川君。 神前、道中舞の名手。。 |
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巡行 | 宮出(1時頃)→永楽町→ディアモール→第4ビル(合同)→ヒルトンプラザ→ヒルトンウエスト→ブリーゼ→ハービス広場→ACTY→阪神百貨店→大阪マルビル→リクルート・イーマビル→神明碑→大阪北小学校→曽根崎2丁目南→宮入 |
2/4拍子、大きい声をだして、元気よく!!!!!! |
宮出の神前 | 第4ビル前 神前にて |
2011年舞獅子記念写真。(別隊メンバー除く) |
曽根崎商店街を西進する獅子舞の道中。 古いフイルムからスキャン。 |
まだ大映の映画館が建っていた頃の獅子の宮出。 |
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曽根崎梅田フォト散歩 |
工事中の頃のサウスゲートビル。次は大阪中央郵便局、その次は阪神百貨店か??? | 昭和54年改築されるまでの第3代目大阪駅。 修学旅行専用列車きぼう号(夜行)に乗って 東京に行ったのもこの駅から。 |
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ノースゲートビルからのコンコースの眺め。(10mm超広角使用) | 阪急グランドビルからの景色。 | |
たぶん50年近く前の富国生命ビル建設予定 土地の小松原町。隣にシネラマがある。阪神 百貨店屋上より柵の近くまで行けなかったの で柵が写ってしまいました。 使用カメラ 小西六コニレット蛇腹式 |
ビルの名称は“ノースゲートビルディング”5月4日大阪ステーションシティの名前で開業。東西線北新地駅から 伊勢丹三越、ルクアまで一直線で行けるようになったがバスターミナルが北側に新設されたためヨドバシに 行くのに不便になり、不評たらたら!!!! |
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北ビルと南ビルをつなぐ渡廊下(屋上プラザ)よりの東側の眺め。 |