曽根崎小学校 幼稚園
TOP  戻る  露天神社  曽根崎フォト散歩
曽根崎小学校跡地が更地になりました H28-2-25
創立からの歩み
明治7.8

曽根崎村231番地(現在の大阪駅前第2ビルあたり)第3区小学校として開校55坪の民家に42坪の平屋を増築したもの。生徒数約200名を収容した。
   12 曽根崎小学校と改称
昭和8.2 渡邊新右衛門氏、幼稚園設立を条件として大阪市に金一万円を寄付して
曽根崎小学校の一部を改造して開園
   19.9 小学生3年以上227名滋賀県虎姫町に集団疎開。
   20 幼稚園、戦災にて焼失
   25.4 曽根崎小学校PTA実行委員会の尽力で大阪市に陳情、地元有志の方々の
寄付を得て4月小学校校舎1階の4教室(プール横)を利用して、又、西天満幼稚園の分園として開園。藤井一良校長が園長を兼任。
   35.3 35年度曽根崎小学校卒業生徒数319名
   36 健康優良学校日本一に決定。桑原於菟也校長
   49 創立100周年                     蔦の校舎
   61 堂島小学校と合併。
平成元年.3 曽根崎小学校が閉校(入江信男校長)
   元年.4 曽根崎、梅田東小学校が合併して大阪市立大阪北小学校として開校。
   8 曽根崎幼稚園休園(最終修了者数8名、年少組1名含む)
   19.3 大阪北小学校閉校。(最終在校生徒数40名) 曽根崎幼稚園閉園。
済美,北天満、大阪北小学校が合併して扇町小学校開校
閉校のことば 入江信男校長                     曽根崎閉校記念誌より
この度、学校の統合により、明治7年に創立された「大阪市立曽根崎小学校」は、114年7ヶ月の歴史に幕を閉じることになりました。市の方針に従い、統合に向けて最善を尽くしてきたもの
の、いざ、閉校になると誠に寂しく残念であり、先輩の先生方や卒業生の皆さん方に、そして戦
後の苦しい中で学校を支えていただいた地域の皆さん方にただただ申し訳ない気持ちでいっぱいであります。高度経済成長以来、急速な社会の変化により街の様相も著しい変容を来してまいりました。昭和51年に大阪市学校適性配置審議会の第一次答申が出されて13年がたちました。その間、児童数の急激な減少をみるにあたり、子供の教育を中心に論議が展開され、数々の問題点をはらみながらも堂島・曽根崎が昭和61年に統合されました。そして、その統合の貴重な経験を生かし、梅田東と曽根崎が対等な立場で統合することで、結論は賛成を取り付けたものの、各論においてなかなかご理解を得ることができなかったわけですが、2年間の激しい論議の中で統合推進委員会が結成され、答申通り3校の統合のみるにいたりました。
 今回の統合は、あくまでPTA・PTAのOB・地域の方々により、曽根崎の子供たちの置かれてる立場や将来を最重点に考えられ、大乗的見地に立った決断により実現されたもので、全市に
類を見ない誇りえるものと確信しております。2年間にわたりご苦労頂いた方々に心からの敬意
と感謝を捧げたいと思います。本当に有難うございました。
この閉校記念誌は、百周年記念誌を元に抜粋し、その後の歩みをまとめたものであります。より多くの方々に「曽根崎」の思い出を語っていただきたかったのですが、紙面の制約上お許し頂きたいと思います。百周年記念誌を読み返すたびに、また、ご寄稿いただきました方々の原稿を読ませていただくたびに、114年の歴史と伝統の重みをひしひしと感じております。
 大阪市立曽根崎小学校は、明治・大正・昭和と続きここに校史をとじます。奇しくも新しい年
平成元年に大阪市立大阪北小学校が、新校舎と共に曽根崎の地に誕生することとなりました。
生涯教育の地域のセンターとして、曽根崎にゆかりのある皆様方も、温かいご支援をいた
だき、大阪北小学校の100年後には、曽根崎小学校に優るとも劣らない学校に発展する
ことを願って止みません。
大阪北小学校の廃止について                       大阪市教育委員会

大阪市では、北区の大阪北小学校(校長 俵谷好一)と扇町小学校(校長 松本溢子)の両校の
PTAならびに地域の代表の方々による協議の合意を受け、平成19年4月1日に両校を統合し
同日付けで大阪北小学校を廃止します。
1、経過
大阪北小学校は、昭和61年に堂島小学校と統合した曽根崎小学校が梅田東小学校と統合して平成元年4月に開校した小学校です。開校当時は148名の児童在籍でしたが、その後の
児童数減少を受け、平成14年以降は、複式学級(2つの学年の児童で編成する学級)を有する状態が続いており、平成18年5月1日現在の児童数は40名です。
このような現状を踏まえて、大阪北小学校の今後のあり方を協議するために、平成17年4月に大阪北小学校下の地域の代表の方々やPTA会長をメンバーとする「大阪北小学校適性規模・配置問題協議会」を設置し、大阪北小学校の今後のあり方について、様々な角度から議
論を進めてきました。その結果、平成18年4月、「大阪北小学校は、平成19年4月1日に扇町小学校と統合する。統合後の学校は、現扇町小学校とする。」との結論に達しました。その後、平成18年7月に、「扇町小学校・大阪北小学校合同統合委員会」を設置し平成19年4月に両校を統合することが両地域のPTAならびに地域の代表の方々によって改めて了承されたことを受け、平成19年4月1日付けで大阪北小学校を廃止するものです。なお、来春の統合後に存続する小学校は扇町小学校になります。
 又、大阪北小学校と同じ校地にあり、平成9年以降、園児の募集を停止しており、現在休園と
なっている曽根崎幼稚園につきましても、今後あわせて廃止します。

2、年度別、学級数と児童数(養護学級児童含む)         (大阪北小学校)

年度 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18
児童 148 135 124 120 124 121 110 99 90 79 73 65 59 50 42 38 41 40
学級 6・3 6・3 6・2 6・2 6・2 6・3 6・2 6・2 6・2 6・2 6・2 6・1 6・1 5.1 4・1 4・1 4・1 4・1
曽根崎小学校校歌                      詞 曽根崎小学校選定 作曲 山中二郎
1 大大阪の扇のかなめ 北の玄関梅田の里に 古きゆかりの曽根崎 梅咲き香る昔より我等が町は栄えたり 曽根崎 曽根崎 われらは 此処にそだつ
2 大大阪の商工業の 栄え賑わう梅田の街よ 伝えゆかしき曽根崎 梅咲き香るふるさとよわが学び舎はそびえたり 曽根崎 曽根崎 われらは 此処に学ぶ。
昭和32年頃の曽根崎小学校の会議風景
パネリスト久保田 光さん(菅南12期)中央の議長は大月レコード店のお母さん、その右側は加藤晃子さん(菅南12期)
昭和35年3月 小学校卒業時の住所分布
町名 町名 町名 町名
北区外 87名 堂山町 14名 小松原町 4名 天神橋筋 1名
梅田町 35名 神山町 12名 芝田町 4名 同心 1名
曽根崎中1 8名 太融寺町 14名 角田町 1名 伊勢町 1名
曽根崎中2 17名 兎我野町 11名 小深町 1名
曽根崎上1 15名 西寺町 5名 扇町 5名 松ケ枝町 1名
曽根崎上2 3名 野崎町 14名 西扇町 2名 木幡町 1名
曽根崎上3 8名 万歳町 5名 堂島西町 1名 山崎町 1名
曽根崎上4 14名 梅ケ枝町 1名 中ノ島 1名 浪速町 1名
曽根崎新地 6名 中崎町 3名 堂島中1 1名 紅梅町 1名
永楽町 3名 高垣町 9名 堂島上3 4名 葉村町 2名
堂島浜 3名 浮田町 1名 常安町 2名 樋の口町 1名

旧町名地図

主な町名の由来
万歳町 万歳橋に由来 曾根崎
新地
1710年蜆川北側が開発され曾根崎新地と呼ばれるようになった。南側は
堂島。
兎我野町 仁徳天皇が夜な夜な菟我野(=夢野)
から鹿の声が聞えたが・・・・昔話より
梅田 田畑池沼を埋め立てたので埋田の説
ここの土地の所有者、梅田草庵の説
太融寺町 太融寺にちなんで。 堂山町 太融寺のお堂があったことに由来。
西寺町 1615年夏の陣、冬の陣以後の大阪
戦後復興整理の為、寺社が上町台地と西寺町、東寺町に集められた。
神山町 昔小高い丘で綱敷天神社の創建される以前から神野神社がありそこから生まれたとゆう説。
曾根崎 古来は曾根崎洲とゆう洲であり難波
八十島祭の旧跡であったとゆう伝。
常安町 中之島を開拓した江戸時代の豪商
淀屋常安に由来。
堂島 諸説いろいろ その一つ、古くから薬師堂があり、「堂島のお大師さん」とも呼ばれ、
米市場もちかいことから人々の信仰があつかった。(今はアバンザ東側)

曽根崎小学校同窓会記念写真 2001-2-4

幼稚園恩師の思い出                            休園記念誌より平成9年
田中 はつ先生 昭和20年戦災で焼失、休園、同25年再開園され教諭3名が赴任してまいりました。教具他一切、小学校の借り物でスタート。開園と同時に入園希望者が多く、1組50名を越す盛況で、活気ある多忙な毎日でした。その後、地域の皆様のご協力で園舎は勿論、諸施設特に体育遊具が次々新設され、恵まれた環境の中で遊びを展開できたのはうれしい事でした。元気で明るい笑顔に囲まれすごした40年前の懐かしい思い出です。
米澤 峯子先生 北の玄関、曽根崎が再開園された時赴任した。小学校の門をくぐるとプールの前に教室があり、長机の前に紙と鉛筆が置いてあった。これで入園の準備が出来るのだろうかと心配したが、やっと入園式を迎えることが出来た。戦後梅田の開発で子供が増加した。みんな仲良く手をつなぎ、輪になって元気に遊んだ。しかし、ビジネス化してきた地域で、子供も減少し休園になる寂しさを感じられるが、又の開園を期待したい。
喜多山美知子先生 ”開園時に思いを馳せて”
開園当時、小学校の教室を保育室に利用していた。子供の数が多く、すしずめ状態だった。園庭で随分遊び場もなくプール側でうろつく子、「よう遊ばん」と泣く子少しも目放し出来ず、また、家庭は繁華街のため遊びもままならず、活力の乏しい子供が多かった。この子等をして心身共に潑刺とした子供に育てたいと,園外保育等に力を入れ努力した。幸い保護者の協力を得たおかげで、次第に体力も向上していった。当時の子供達が、立派に社会人として頑張っていることを聞くにつけて、大変嬉しく思っている。

曽根崎幼稚園の歌    作詞 藤澤 ゆかり先生 クリック    作曲 小川 正

皆で歌おう 大きな声で 皆で呼ぼう 友達おいで 楽しい 曽根崎幼稚園
皆で歩こう 胸はずませて 皆で持とう 大きな夢を 明るい 曽根崎幼稚園

平成8年度園児(8名)と教職員。園長 村上昌也先生。

昭和29年 前列左より喜多山先生、田中先生、桑原園長、米澤先生
後列左より宮嶋先生、北垣先生、上田校務員、広田先生、小川校務員

桑原先生の色紙と版画  絵と版画 故 長谷川富三郎画伯

露天神社        

露天神本殿

お初天神商店街HP
西日に映る出入り橋の石畳
(昭和10年竣工)江戸時代
西100Mに蜆川に架かる
梅田橋があった
曽根崎心中、第3章 道行
この世も名残、夜も名残・・・・・
二人の渡る梅田橋・・・・・・
挿入画 露天神社承認済
夕暮れの、お初・徳兵衛
ブロンズ像と供養碑
2人の墓は八尾市の大通寺
祭の特徴
大阪梅田新道の近く、四方八方高層ビルに囲まれた中で毎年7月に祭が営まれています。太鼓、獅子舞お囃子、地車囃子とも、外注せず、祭り好きが集まって自前で運営しています。氏地には小学校がよそに合併されるぐらい住民はいませんが、練習が始まり境内の中から役太鼓や、獅子舞のお囃子の音色が響きわたると夏祭りの情緒が漂い、親につれられた子供達がどこからともなく集まる。宵宮は7時PM頃より境内で賑やかに演じられ、本宮は正午~1時に役太鼓、獅子舞の順に宮出、大阪の表玄関を巡行、9時~9時半PM頃宮入の予定です。
氏地 大阪の表玄関、ACTYビル、ハービス、毎日新聞社、桜橋付近、大阪駅前1,2,3、4ビル、梅田町、曽根崎新地旧永楽町、曽根崎1丁目、2丁目北、南等を巡行。
御旅所 巡行途中に各地区役員による接待が盛りたくさん。
手打ち うちまーしょ

もひとつせぇ

よいとさーのぉ

3回手打をした後最後に
両手を上にあげる。

役太鼓 JR大阪駅前、交差点。右写真
参加申込時期 7月1日7PM頃より境内で練習しています。総指揮に申し込んでください。
参加資格 打子 小学校3年生より。 肩入れ 成人 体力ある人
参加費 不要。但し,若衆祝儀をお願いします。若衆会計まで
巡行 宮出→御堂筋北上→阪神百貨店北側→第4ビル(合同)永楽町
→第一ビル→ヒルトンプラザ→
ハービス→ブリーゼ→大阪マルビル
アクティ大阪→
リクルート神明碑元大阪北小学校曽根崎2丁目南→宮入
ヒルトンプラザでの神前。 たぶん50年以上前の元獅子舞総指揮 石川君。
神前、道中舞の名手。。
舞獅子 出場者住所の地域制限はありません。練習に来て祭りに
参加してください。
祭だけの参加は不可。
申込時期 2010年参加申し込み終了。
申込場所 社務所前、獅子舞専用参加申込所にて。認印必要
参加基準 幼稚園児以上初参加は年齢に関係なく手踊り
傘-小学6年以上 竹-小学3年以上、
お囃子太鼓ー小学4年以上、笛ー太鼓2年以上経験者
参加の栞 申込時に参加の栞を渡します。詳しい事を書いていますので
よく読んでください。
参加費 不要。但し,若衆祝儀をお願いします。若衆会計まで
巡行 宮出(1時頃)→永楽町→ディアモール→第4ビル(合同)→ヒルトンプラザ→ヒルトンウエスト→ブリーゼ→ハービス広場→ACTY→阪神百貨店→大阪マルビルリクルート・イーマビル→神明碑大阪北小学校曽根崎2丁目南→宮入
2/4拍子、大きい声をだして、元気よく!!!!!!
宮出の神前 第4ビル前 神前にて
2011年舞獅子記念写真。(別隊メンバー除く)
曽根崎商店街を西進する獅子舞の道中。
古いフイルムからスキャン。
まだ大映の映画館が建っていた頃の獅子の宮出。
地車囃子
申込方法 年中、毎週土曜日夜7時より、神社蔵2階で練習しています。何時でもどうぞ。
お囃子 鐘、太鼓のお囃子だけ覚えて祭当日不参加の冷やかしは出来ません。
踊り 踊りの振り付けは自由踊りの練習は無し。
年齢制限 無し。
右写真 ブリーゼ ブリーゼ北側


曽根崎梅田フォト散歩
工事中の頃のサウスゲートビル。次は大阪中央郵便局、その次は阪神百貨店か??? 昭和54年改築されるまでの第3代目大阪駅。
修学旅行専用列車きぼう号(夜行)に乗って
東京に行ったのもこの駅から。
ノースゲートビルからのコンコースの眺め。(10mm超広角使用) 阪急グランドビルからの景色。
たぶん50年近く前の富国生命ビル建設予定
土地の小松原町。隣にシネラマがある。阪神
百貨店屋上より柵の近くまで行けなかったの
で柵が写ってしまいました。
使用カメラ 小西六コニレット蛇腹式
ビルの名称は“ノースゲートビルディング”5月4日大阪ステーションシティの名前で開業。東西線北新地駅から
伊勢丹三越、ルクアまで一直線で行けるようになったがバスターミナルが北側に新設されたためヨドバシに
行くのに不便になり、不評たらたら!!!!
北ビルと南ビルをつなぐ渡廊下(屋上プラザ)よりの東側の眺め。

明治時代、現在の朝日新聞社より西側の景色。 梅新交差点、野田阪神交差点より桜の宮
の銀橋までの区間を曽根崎通りと呼ぶ。
大阪中央郵便局 建て替え
昭和14年建築家吉田鉄郎氏設計により竣工。モダニズム建築の傑作と言われた。3年後、地上40階建,地下3階、高さ187mの高層建築が出来る。
中之島 中央公会堂前をイルミネイト
された道路。
昭和8年頃の堂島・曽根崎
新地の店名地図。 拡大
扇町高校校庭跡から出土した高松藩(讃岐 松平12万石)蔵屋敷の遺跡。元禄時代大阪に
95の蔵屋敷があったがそのうち40は中之島に集中していた。
駅逓司大阪郵便役所碑の横に立つ記念ポストの
上にブロンズ像が飾られている。(日本銀行前)


Page top